自分の中での時間、他人の中での時間、その相互関係

自分の中での時間、他人の中での時間、その相互関係
自分の中での時間の過ぎ方が
どうもいつもと違うというときがあると思います。
その時、他者を見ると
いつもと変わらないと、思うとき
自分がおかしいと認識してしまいます。
しかし他者の中での(他人という表現よりも合っている気がする)
同じような、異常性、ないしは非日常性はわからないはずです。
ですから、この時に他者に
同じような変化がみられるか聞くことができる人は
このコミュニケーションで
自分自身の中の変化をアジャストできると思います。
しかし
このコミュニケーションができないと、なかなかアジャストができずに対応不安が生じてきます。

人間はある一定のリズムで生活をしております。
基本は心臓の鼓動。
そして生活のリズム。
さらにはコミュニティへの参加。
この中で
自分の中での非日常性は
すごく違和感を持って捉えられてしまいがちです。
単なる
病気の兆候などなら、簡単なことです。
治療すればよい。
しかし
気が付かないうちに
自分の中での非日常性が
他者の日常と不一致する場合が出てきて
その場合の処理として
他者ないしは自己否定に走る場合があるのです。

この自分のリズムの違和感を
他者にも求めて強要するということが
通常は、パワハラモラルハラスメントなどのつながりやすいと思うんですけど、
今の時代は旧悪犯罪にもつながりやすいと思います。

ここで理解しなければならないのは
他者の中でも困惑は日常的に生じているということ。常に非日常的な違和感は感じているということです。
その、非日常的な状態の2人がたまたま出会うと
やはり、非日常的な行為が生じることがある。
簡単に事件になるのです。

ですから、自分の状態の把握を常に行い
相手も観察する余裕が必要です。それがないときは
自分の中での
時間の経過と自分のリズムが一致しているかどうかを常にチェックする必要があると思うのです。
自分の価値基準で他人を判断するということではないんです。
だいたい、自分の中での時間からの、自分の意識のずれというものは
認識しません。なにか、浮遊感みたいなもので感じるだけです。ないしはベールに包まれたような感じ。
一番良い解決は
他人からの指摘なんです。ですから
コミュニケーションは重要かと。

コミュニケーションに置いての他者とのルールは慣習となっていくから
それは別の話です。

ですから
常に自分を理解してくれる他者を置いておくとよいと思います。
ですから
夫婦は基本的にこの役割を果たすものだと思うのですけど
現代的には
違うのかなと。

言っていることが全く分からない人は(私の文章の稚拙さゆえでしょうけど)
一度、自分の動きを止めて、歩き行く人たちを眺めていると良いでしょう。
みんな、自分自身で、独り言を言ったり、何かに没頭して
自分自身を逸脱から押えようとしていることに気が付くでしょう。
その時あなただけではない、ということに気が付くはず。