エイフマンバレエ 「ロダン」  AT 東京文化会館

エイフマンバレエ 「ロダン」  AT 東京文化会館
特設サイトはここ
https://www.japanarts.co.jp/eifman2019/index.html

まずはNHKのカメラが2日とも入っていた。放送があるでしょう。
そして、私個人的には
暑くて、熱中症手前で会場についた。
本当にダンサーたちは強いと思った。

端的に今回の舞台について言うと
男性コールドのダイナミクスを見る舞台、ともいえるし
ポーズに要約された美を見る舞台ともいえると思う。
このポーズに至るまで、それがどう作りあげられたか
エッセンスをまとめ上げたものでもあると言える。
その内幕を披露するとき
観ているものの好奇心は満たされる。
観客は好奇心旺盛なのでそれが十分に満たされる構造になっているのだ。

また、ここの彫刻のごとくのポーズとともに
舞台全体の奥行きから
上手から下手に至るまでの構図の美しさも舞台全体を映えらせる。

当然ポーズにおけるダンサーの肉体美も観るべきものではあると思う。

さらに
第2幕に至っては村のカーニバルっぽいシーンや
キャバレーのフレンチカンカン的シーンのコールドがとてもきれいでダイナミックでした。
この踊りは目の保養になるし、世間の楽しい恋というものはこんなものなんだよな、と
皮肉的提示をしてくれる。
さらに
この村でのカーニバル的シーンでは振り付けも古典派的振り付けで
表面的な恋愛や人間関係を描くにはこういう感じでしょう?とすこし問題提起されているのです。
ここは観ていて本当に、第1幕での内容を否定するかのごとくでした。うまくきれいに
対古典派バレエに対する自分たちのスタンスというものを主張するために
古典派とは、というものを入れたと思う。

ただ、こんな世間の恋愛を描いて楽しい舞台の中
やはり、狂気の世界に行ってしまう終わり方は第1幕と対になっていて
この後、また始まるのかな狂気の世界とその人間関係が?と思わせてくれる
余韻のある終わり方をする。
で、も
私個人的な意見だが
カミーユクローデルを肯定している舞台だと思います。
考え、間、人間関係、それから快楽、またそれの否定的な部分を超えて自己確立をしたいという彼女の
ロダンとの関係をまさに
直接的に正面からとらえていると思う。
この感情の揺れ具合が素晴らしかった。

さらに本当に個人的な感想を追記します。

舞台全体で感じたのは
なんというのか、考えることを否定して、肉体のみをデッサンする。
しかし
欲望は肉体へ、ないしは肉体内で生じて、それに負けるときがある。それもそれが自分だとわかっているのも自分。
しかし、その行為の最中に気が付き、自己嫌悪にも苛まれる。そこに創作の動機がある。

だから「愛」は必要なのだが創作には邪魔になる。
では、どうすればよいのか?
この舞台に徹底して付きまとうものがある。それが「愛」なのだ。
さらには「匂い」
誰もがあのポーズの時、どのような生理的な臭いを発するのかわかると思う。この「匂い」は終始感じさせられる。
人間は生ける動物であるから当然匂いはある。
それはどんなに人にも平等にある。
しかし、彫刻などの作品にはそれが存在しない。このギャップは作者をも悩ませる。この生きている活動の副産物たる匂い、汗などは
どうしたら描けるのだろうか?その過程(生活、行為そのものなど)における気持ちの揺らぎはどうすればよいのか?
そして作品は完成をせずに破綻する。このことが精神に与える影響たるや測りえないものだろう。

ロダンはこの匂いを排除した彫刻で名を成した。しかしその過程においては
人間関係も人間臭いし、その人間自体からも生物としての匂いがあった。感情のぶつかり合いの「間」があった、

それを描いてみたい、と言っているように思えた。

すごく人間臭い舞台だったし、それを第2幕で一瞬排除する
展開は見事でした。