横浜が輝いていた時代

横浜が輝いていた時代
それは2回あると思うのです
一度目は
明治維新前後。海外との窓口でしたから。
全国から、ほかの貿易港と同じように
人が集まってきており、外国人移住も多かった。
その時、本牧
各国の外国人が住んでいた。
第二の戦後ではこの外国人はアメリカに限られてくるのですが
このときは
ロシア、フランス、イタリア、アメリカ、英国
オランダ、さまざまでした。
たぶんこの時が一番輝いていたことでしょう。

次のピークは
第2次世界大戦後。
米軍の支配下です。
あまりかの文化との接点があった。いろいろなアメリカの文化が入ってきた時代で
東京が首都としてかなり制限されていた時に
アメリカがそこにあったといっても過言ではないくらいだった。
これは私の父親の写真を見ても
すごくわかる。
いち早く
アメリカの文化を吸収したのが
意外と中華街の中国人たち。
周富徳さんも
若いときにやんちゃしたという話をしていたと思いますが
結構遊びまわる雰囲気があったと聞きます。

いろいろなバーやライブハウスがありましたし
私の記憶でもPXや将校クラブはあります。
いまと違って情報が独占されていたのです。
若干このときに近いのが
黒澤明監督の「天国と地獄」の描写なんでしょう。
当然私はこの時代を知りません。
ただ、当時
全国から横浜に来た人に
昔、聞いた話では
「なぜ横浜に来たのですか?」という私の問いに
「横浜は輝いていたんだよ、とりわけ明るかったんだ」という答えに唖然としたことがあったのを
今でも覚えております。
その方々も亡くなった方が多い。
息子や孫たちに聞かせてあげたいなあと思うのですが、
SNSスマホのほうが興味ありますよね。

そして
その2番目が終わったのが
40年くらい前でしょうか。

そして「みなとみらい」を中心に
すこしづつまた輝きを戻しつつあるのか?わかりません。

2番目のピークが終わっても
横浜文化体育館でのコンサートの歴史を調べてみると
横浜も捨てたもんじゃなかったな、とわかると思います。
柳ジョージさんではないけど「フェンスの向こうのアメリカ」にあこがれを持っていましたよ。
その余裕が今はないとかの国の大統領は間接的に言っている。