「白鳥の湖」についての基本とは

白鳥の湖」についての基本とは
昨年来、まあ変化球の
ボリショイのグリゴローヴィッチの「白鳥」と
昨日ミハイルロフスキーの「白鳥」を見て思ったのですが
現在の白鳥はどんどん変化して行って
良いのだと思います。
チャイコフスキーとプティバにとらわれすぎることなく
どんどん時代によってあるべき姿を変えていくのもありかと思います。
最低限の基本とは何か?を昨日以来考えていたのですが
まあチャイコフスキーの音楽を削らないこと、
オデットとオディールのPDDを削らないことくらいでしょうか?
王子の立ち位置については
べりリン・バレエはPatrice bartの振り付けでかなり王子偏重の、物を作りました。
まあこれはこれで一つの成果だと思います。
上記のグリゴロ版は1,2幕をつなげて、3,4幕をつなげて
ロットバルトに操られる王子。
昨日のミハイルロフスキーはオデットがどちらかというとロットバルトに支配される。
このように
王子の立ち位置によって
花嫁候補、ひいては皇后の意味が変わってきます。
さてと
基本は
王子の花嫁探しで
王子はモラトリアムなのか?そこでしょう。
しかし基本は
オデットにあると思うのです。
オデットが正当なる皇位継承者である王子の気をひいてしまう。
そして
結局は王子はそれによって、皇位継承を捨てて
愛の道を選んでしまう。
その恐ろしい、愛の存在を、森の中奥深い「湖」に舞台を設定したのだと思います。
これ勝手な想像ですけどね。
ですから、無垢な白鳥、いわんや鳥類(動物でも可)にロットバルトが仕掛けた
愛を試す物語、として考えるとどうでしょうか?
その試されることに王子は引っかかった、
どのような過程で引っかかり
最後はどのような解決をするのか?
それが基本の道で考えるとわかりやすいと思います。
最後、愛の勝利があるとします。昨日のパターンです。
そのあと、彼らは皇位継承をしたのでしょうか?
それとも
王子の友人たちの天下になって
花嫁候補と国を治めるのでしょうか?
そのプロットにより、1幕での王子の友人たちの踊りも見方が変わると思います。
また舞台設定も
現代に置き換えるとどうでしょうか?
まったく違うものになるかもしれません。
今度来日する
モンテカルロバレエはそれに挑戦しているみたいです。
公式サイトはここ
http://www.nbs.or.jp/stages/1502_montecarlo/program.html
どんどん
話を変えていくと行きつくところは
何不自由ない男が
ある誘惑に引っかかってどのような落とし前をつけるか?という形になると思います。
しかし、メインはあくまでもロットバルトの誘惑。それを具現化するオデットという存在。
ですからオデットが主役でいいように操られるオディールとともにこのバレエの根幹をなしていると思うのです。
ここがぶれなければ
なんでもあり。
話変わりますが「くるみ」で
オーストラリア・バレエの挑戦は女優の生涯みたいで
すごく華麗なるものでありました。最後の感動は半端ないものでした。
そのように、「今」、世界が抱える、問題を浮き彫りにして
再構築してみるのも面白いかもしれません。
昨日の「白鳥」でも寝ている人は寝ております。
携帯は鳴る、物はどんどん落とす、雑音の嵐でした。
変に古典にこだわることはないと思います。
あと演奏も、昨日のように
変化をつけるとか、ボリショイのようにあくまでダイナミックかつスピーディとか
いろいろとあるのかもしれません。
いわゆる古典再構築、再解釈ですね。
面白い時代ですよ。