「パルジファル」AT 新国立劇場 

パルジファル」AT 新国立劇場 

特設サイトはここ
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/parsifal/
2度目となる昨日感じた、たぶん妄想。
ここで改めて「舞台神聖祝典劇」として「パルジファル」の位置づけがわかるような気がしました。
この作品はワーグナーの最後の作品であり、上記のようにこれまでのオペラと一線を画するものとしての位置づけがされております。
それは簡単に
創作劇ではなく、ゆえに劇的効果をかなり排除したものとして成立しているからだと思いました。
3幕の最後の退屈さはこれゆえなんです。ここを(この退屈さを)感動の余韻という表現で評してもいいともいます。物は言いようですから。

さてと
この物語は
基本的に、クリンゾル、クンドリー、あるいは女の勝利の物語として書かれているのではないか?と思ったのです。
それは2幕で表現されているすべてです。聴衆も
2幕は一気に舞台に引きづりこまれます。それは、新国立劇場の聴衆も同じでしたね?違うという方、もっと周りの人の反応を見た方が良いですよ。
ではなぜ?そして演出もここは冴えている。ということは演出はワーグナーの意図を完全に掴んで、聴衆をコントロールできているということです。
なぜ、そうなのか?
異教、ないしはディオニソス的世界の勝利、真の勝利を2幕で扱っているからです。
極論ですが
今回の演出を見てクリンゾルとクンドリーの子供たちが
正当な世継ぎとして
聖なる金曜日を迎えるのではないか?というニュアンスがあるからです。
クリンゾルのいちもつは、そそり立つ。そして混沌なるクリンゾルとクンドリーのディオニソス的世界にパルジファルも引き込まれるからです。
ダンスは今回は聴衆をその世界に引き込む演出的手段。うまくはまりました。クンドリーの振り付けも聴衆ははまりました。
そう、ディオニソス的世界に見ているものは引きずり込まれたのです。
そして1幕と3幕が対になり、
キリスト教的、正しい(表面上?)世界が構築されるのです。ですから
舞台の中心で流れているのは「道」ではなく(その意味も付与して、多元的な意味付与されている)根本はディオニソス的世界の裏の支配という歴史の流れではないかと思います。
正しさは表面なんです(言葉を変えると女性が裏でつかさどっている、男は操り人形という感じ)。そこを
すごく婉曲的に表現した演出だと思います。
ワーグナー自体もだからこそ、「舞台神聖祝典劇」としたのでしょう。最後、正しさが勝つような気がしますもんね。
そして、観客もその予定調和に(1幕から仕掛けられている)満足して終わるのです。だってクンドリーの1幕3幕での所作は
男性社会のアポロ的、規律、建設的考えの下での女性の立場を演じているわけですから。
ですから
ワーグナーの考えと
演出家の考えは一致していて、それを具現化した舞台が、この新国立劇場の舞台なんでしょう。
そう考えてみるとすごく納得できました。
直線的な、論理的思考的なオブジェとして、ないしは男根的なものとして
サイドからクレーンみたいなの登場しましたよね。それが全てです。
あとの感想は前回の解釈通りでしょうか。
一つ私からの注文があるとしたら
演出、最後、聖なる金曜日としてもっと正統的なものとしての、嫌味としての派手な宗教儀式にしてしまえば完璧だったでしょう。
それはワーグナーの音楽もしなかったの。なぜだかわかります?
批判が出るから。

これ、誰の意見も聞いていない、歴代の解釈も知らない、ワーグナーの知識浅い人間の戯言と思ってください。
舞台全体の出来、ソリストの出来、オーケストラの出来、良いも悪いも
あれがワーグナーの作った「舞台神聖祝典劇」ですから、評価ではなく参加なんです。ですから評価不能なんです。
以上